郷里の四季

私の故郷は会津盆地の中央に位置する坂下町束原という農村集落です。
町からは四キロ近く離れており、大川(阿賀川の支流)のほとりで五十戸程の農家が肩を寄せ合うように暮らしておりました。
昭和二十八年に生まれてから高校を卒業するまでの十八年間、毎日盆地の空気を吸い磐梯山や飯豊山を眺め土地の人たちと苦楽を共にしながら育ちました。
今年で私は四十八歳になり、郷里を離れてからちょうど三十年が過ぎました。政治の世界に身を置き日々煩雑な時間を過ごしながらも、時には重大な決断を下さなければならない時、自分自身の思考回路はどのようにつくられたのだろうかと考えることがあります。物事を判断するときに使用される基準は、子供の頃の体験を通して身につけられたものが少なくありません。今の自分を知ることは、郷里での体験の一コマ一コマを思い起こし、そこで得たものをしっかり見つめ直すことに他ならないと思うのです。
郷里の四季おりおりの出来事を通して子供であった私の足跡を紹介しながら、私の言わば精神の原風景に立ち返ってみたいと思います。

三月になれば雪も溶けだし、あちこちにできた黒い地肌からフキノトウや猫柳が芽を出してきます。水も温み、冬の間物陰にじっと身を潜めていた魚が活動を開始する時期でもあります。この小魚を狙ってガラスうつぼを仕掛けるのです。うつぼとは「どう」のことで、米糠を炒って香ばしい匂いをつけたエサを中に入れ流れにそっと沈めてやります。一晩も置けば中には鮒、ハヤ、モロッコ(モロコ)、タラメンコ(タナゴ)、泥鰌などの小魚が一杯入っていて、真っ黒になって見えます。獲ってきた魚を生簀に貯めておいて泥を吐かせた後、醤油と砂糖で煮つけて食べるのですが、小骨をかむ時のコリッとした感触は、今でも忘れられません。このガラスうつぼ、仕掛けを失敗するとたちまち割れてしまいます。確か当時の値段で五十円はしたと思いますが、お年玉を貯めて買った貴重品が一瞬のうちに壊れてしまうのを見る時は涙が出たものでした。

四月は桜の花とともに新学期を迎えます。新しく六年生になった者がリーダーとなって村の子供たちを統率します。通学も全員が揃ってから出発します。誰か一人でも寝坊して遅れても揃うまで待っています。遅刻しそうになると、走れと号令をかけるのもリーダーの役目なのです。時計を持っていない時代によく時間が判ったものだと感心します。寝坊した子は責任を痛感して二度と遅れまいと誓うのでしょう。口も開かずに命令に従います。連帯責任ということを知らず知らずのうちに身につけたように思います。放課後は早く帰ってきた低学年の子から順に広場に集まってきてめいめいで遊んでおります。最後に六年生のリーダーが帰ってきてから全員の遊びが始まります。今日はこの遊びをやる、と決めるのもリーダーの役目です。勉強は全くしませんでした。毎日、祖母が呼びに来る晩ご飯の時間まで遊び回っておりました。でも勉強よりももっと大切な事、つまり体をつくるための運動をする、子供社会のルールを守って遊ぶ、皆で行動することを学んだような気がします。

五月は田植えのシーズンで、子供たちは親の手伝いをやらされます。学校も農繁期休業で休みになります。今のように機械化されていない手作業の時代でしたので、子供も貴重な戦力だったのです。私も実際田植えをやりましたからうまいもんですよ。まず「しろかき」と言って田圃の土を水と一緒に機械で混ぜ合わせ泥々になるまで柔らかくします。次に定規で格子模様に線を引き、苗を植えて行くのです。後でわかったのですが、日本全国田植えの方法は千差万別で、前進しながら植えるところもあればバックしていく所もある。綱を張る所もあれば何もしないで勘を頼りに植えていくところもあるのです。ちなみに会津は前進型でした。足を抜いて前進する時、植えた苗を倒さないように注意しなければなりません。腰が痛くなり頭に血が昇ってきます。そんな辛い労働の唯一の楽しみは、さなぶりと呼ばれる食事時です。お金で雇われるのではなく、手間を融通し合う村社会でしたので、あそこの家のおかずはまずかったなどと言われないよう結構気を使うのです。子供たちは、普段は食べられないごちそうを喜んでまた手伝おうという気になります。

田植えが終わり野山が新緑に包まれる頃、私たちは春の恵みを沢山いただきます。端午の節句にはよく草餅をつくってもらいました。よもぎの若芽を摘むのは子供たちの仕事です。「ボテ籠」いっぱいのよもぎをさっとゆがいてすりつぶし餅に混ぜこむと香ばしい草餅ができあがります。こしあんの甘さが何ともいえないハーモニーです。大空を泳ぐ鯉のぼりと草餅が会津の男の子の何よりの楽しみでした。その他フキ味噌、セリのおひたし、コゴミ、ワラビ、ゼンマイ、ウドなどの春の恵みが山程食卓に並べられ、またかとうんざりさせられるのでした。冷蔵庫のなかった時代ですから、肉や海の魚を食べた記憶は全くと言っていいほどありません。自然と菜食中心になるのですが、必要な栄養は一体何からとっていたのでしょうか、不思議でたまりません。でももしこの時代の食生活が解明されたのならば、ヘルシーライフのお手本になると思います。母に一度聞いておかなければいけないと思ってます。

六月はうっとおしい梅雨の季節です。会津盆地の夏は、日中暑くとも朝晩は気温が下がって過ごしやすい気候でした。毎日川に出かけては泳ぎ魚を追いかけ夏の陽に体を焼き、疲れると畑に入りスイカや瓜をいただく(ゴメンナサイ)。本当に夏を満喫しておりました。ただ私が小学校を終える昭和四十年頃から水質が年々悪化し、とうとう川での遊泳は禁止されました。上流の若松市でし尿の処理が不十分だったために水が汚濁してしまったのです。今だったら大問題になる所でしたのに、当時は騒がれることもなく大らかなものでした。川で泳げなくなったかわりに、学校にはプールが造られていきました。私が曲がりなりにも泳げるようになったのは、このプールのおかげで川でばかり泳いでいたのではクロールなどはマスターできなかったでしょう。

ほぼ1ヶ月近い夏休みも、子供たちにとっては楽しみのひとつでした。何せあの大嫌いな勉強から解放され、朝から晩まで遊ぶことができるのですから。でもテキ(先生)もさるものです。ちゃんとそういうことを見越して宿題を山ほど用意してありました。中でも「夏休みの友」(友ではなく敵だと思っていた!)という大学ノート一冊分の厚さもある全教科にわたる問題集は最大の難関でした。私たちは自衛策として全員が寺に集まり教え合いながら協力して対抗しようとしました。今でいう勉強会ですね。朝八時の涼しいうちに集まり問題解きが始まります。十分もしないうちにモゾモゾと遊び始める奴が出てきます。問題の意味すらさっぱり理解できないのでしょう。仕方なく上級生が自分の作業を止め手伝ってやることになります。こうして下級生は全く訳が解らないうちに解答欄が埋まっていき、勉強が出来るようになったと錯覚するのです。不思議なことにこの下級生が上級生になった時には、ちゃんと後輩に教えることができるようになっているのですから。十時頃になると気温もあがり、蝉の声もうるさくなってきますから勉強は終わりです。本来は遊ぶべき時に勉強をしたのでものすごい優越感と充実感が湧いてきます。

村の中には堰掘せきぼりと呼ばれる十メートル程の川幅をもつ農業用水路が流れておりました。水は生活の基本ですから、この堰堀は飲料水や洗い物に使われましたし子供たちにとっては釣りや水遊びなどの格好のフィールドでした。ただ川沿いに組まれた石垣には大きなシマヘビや青大将が悠々と日向ぼっこをしておりました。子供たちもヘビは大の苦手むしろ皆敵対心すら持っておりましたので、ヘビは激しい攻撃に曝されることになります。投石、棒突きと姿が見えなくなるまで徹底的に行われます。子供も時には残酷に変身するのですね。あわれ私の守護神でもあるヘビは、子供の無残さの犠牲となるのでした。

子供達は毎日小遣いを貰っていました。大体十円が多かったようです。勉強会から帰ると祖母や母から貰った十円玉を握りしめて村の駄菓子屋に走るのです。クジ、玩具、ビー玉、ベーゴマなど子供心を惹きつけるものが沢山並んでおりました。口の周りが赤く染まるような梅漬けも売られておりましたし、口の中に放り込むといったん水のように溶けてしまうのですが、呑みこまないで噛み続けているとガムになるという不思議な食物もありました。新しいクジが売られた日など、その日の小遣いはあっという間に使い切ってしまい明日まで待てないと思いながら家に帰ると幸いにも誰もいません。祖母から毎日小遣いを貰っていた私は、財布のありかを知っていましたからそっと十円玉一枚を盗ってクジを買いに走りました。しかし、夕方帰宅した祖母はたちどころに私の犯罪を見破ったのでした。結構小銭が入っていたのにどうして分かったのかなぁ、未だに不思議でなりません。

会津の夏は蛙の大合唱とともに訪れ、雷などの賑やかな鳴物も登場し、コオロギの鳴く音が聞こえだす頃に終わりを告げます。自然との関わりが最も多く、そして濃密な夏の出来事は一年の活動のピークを形づくるものとして毎年体一杯に刻みこまれたのでした。

都会からの帰省客もいなくなり、賑やかだったお盆が終わるころになると二学期が始まります。真っ黒に日焼けした顔から歯と目の白い部分だけが目立つような子供たちが、大勢学校に戻ってきます。秋はスポーツの季節、運動会のシーズンです。運動会は刈り入れ前のタイミングを見計らい、豊作祈願もかねて行われておりましたので、村中の一大行事でした。朝から子供も親も年寄りもいそいそと学校に集まり、皆で一生懸命声を出し、参加し、そして楽しみました。リレー協議などは地区対抗で行われ、大人も四、五人は出場します。普段あまり走らない大人たちの足がもつれて転倒しそうになるシーンなどは、場内の爆笑を誘ったものでした。ただ、私にとって運動会の想い出はあまり楽しいものではありません。私の両親は二人とも学校の教師でしたので、親子が一緒に昼の弁当を広げるということがなかったからです。ほかの家族は一家揃って楽しそうに食べているのに、私はポツンと一人だけ離れたところで食べる寂しさ。子供心にたまらないものがありました。

秋はまた、収穫の季節でもあります。春の田植え時と同じように二、三日の農繁期休業がありました。稲刈り、稲の運搬、脱穀と襟元から藁屑が入り込んで、ヒリヒリするのにもがまんして働かされました。イナゴ獲りもよくやりました。バッタの一種のイナゴは佃煮にすると美味しいので、教育備品購入の資金を稼ぐために全校生徒でイナゴ獲りをやったものでした。ツルで丸い輪をつくり、袋の口にはめ込みますと虫を入れやすくなる仕掛です。競争でしたので、2キロ、3キロと大量に獲ることができるとノートや鉛筆がもらえるので必死でした。朝家を出て、イナゴを獲りながら昼までに学校に辿り着くのです。ズッシリと重い袋を計量器にかけ、「うわぁー、凄いなぁー」などと声をかけられるとそれはそれは嬉しいものでした。

ところで、北海道には虫が少ないせいかあまり虫に慣れていないようで、クモやイナゴやアブがでると大騒ぎをする人が多いようです。蚊に刺されても、私などは爪でバッテン印をつけてやるとそれでかゆみも止まってしまうのに、ポッコリと赤くはれてしまう人が見受けられます。免疫ができていないせいでしょうか。東京に住んでいる時、郷里から送られてきたイナゴの佃煮を見た北海道出身の友人は、ギャーッという大声を出し、腰を抜かしてしまいました。バッタ、バッタと言ったきり言葉が続かないのです。世にもおぞましいものを見たというような顔をしており、私にはおかしくてたまりませんでした。

クルミもよく採りました。昔の人はうまく考えたもので、クルミの木を川べりに植えたのです。実がなると房ごと川に落とし、水面に叩きつけられる衝撃で房が一個づつバラバラになり、下流で待ち構えていれば労せずに実が採れるのです。穴を掘って一ヶ月ほど埋めておけば、外皮が腐って私たちがよく見る固い殻のクルミが出てくるのです。クルミは食用にもしてましたが、結構いい値段で売れましたので採集を商売にしている人もいたくらいです。

会津は桐の産地です。桐タンス、桐下駄など桐製品が有名です。どの家でも娘が生まれると、桐の木を植えたものでした。ちょうど嫁入りころになると手頃な太さになるので、これを売って結婚資金にするのです。私の母も嫁入り道具として桐のタンスを持ってきました。我が家の二度の改築でこのタンスを捨てる捨てないの大激論が父と母の間で闘わされましたが、結局、それは今でも私の家で大事に使われております。

魚たちにとっても秋は産卵のシーズンで、婚姻色に染まった姿はとてもきれいです。春から夏にかけて川の栄養をたっぷりとったハヤは、赤と黒の縞模様に染まりアカハラと呼ばれるようになります。流れの速いところにヤナ場をつくり、小さめの石を流し込んでやると産卵場と勘違いするらしく、その石にアカハラが群がってきます。ここにすかさず投網を打ち込むのです。脂の乗った大量のアカハラが文字通り一網打尽で獲ることができます。串焼きにしてもいけるし甘露煮にしても大変おいしく、これから訪れる厳しい冬の貴重なたんぱく源として保存されるのです。

十二月を迎えると里にもちらほらと雪が舞い降りてきます。

除雪も交通も今ほど発達しておりませんでしたから、冬は文字通り陸の孤島化し、交流が途絶えてしまいます。それでも、人々は雪の合い間を縫っては、お茶を飲みに出かけ、漬物をかじりながら一日中人の噂話をして過ごすのです。よく言えば情報交換ですが、逆に言えば他人への干渉でもあり、閉鎖性と内部干渉を常とする村社会の典型的な姿です。私はこれになじむことができず、郷里を離れて東京に出ました。ようやくあのしがらみから抜け出すことができた開放感は、若さと相俟って私を自由なのびのびとした、時には常軌を逸脱した世界へと誘ってくれました。しかし後で身につまされるのですが、開放感や自由の裏にはやや冷たい寂しさや孤独もつきまとうようですね。故郷を離れて30有余年、ずっと抱いてきた寂寥も日々の煩雑に取り紛れていましたが、二年ほど前に小学校時代の友人がひょいと苫小牧に訪れたことから故郷のことが蘇ってきました。交信が再開し、電話で何度か話しこむうちに懐かしさがこみあげ、遠い彼方に忘れてしまっていた昔からの暖かい心のあり様を思い起こしておりました。今年の私の選挙には同級生全員が色紙にメッセージをしたためて励ましてくれたり、同級生の写真を見て名前を思い出したりしていると、その背景には子供の頃のことが次々と浮かんできました。故郷の人達の生活や考え方に思いを巡らしていると不思議と今の自分の考え方に共通するものがいくつか見つかるのです。相互扶助、連帯責任、忍耐、調和、バランス感覚、それらは私が若い時に否定したはずの村社会的な考え方でした。忘れていたものを探しあてることができた、そんな感覚です。ですから郷里のあの人たちに会うために今年は帰ってみよう、そう思っております。

日本でも有数の豪雪地帯である会津地方。一晩に一メートル以上降ることも珍しくなく、朝起きてみたら家がすっぽり埋まっていたこともありました。大人たちに藁を編んで作った「雪踏み」という長靴で道をつけてもらい、二キロ離れた学校へ通います。除雪もしていない頃でしたから、吹雪の日は、背丈程もある吹きだまりを上級生を先頭に乗り越えながら手をポケットに突込み、顔をギュッとしかめ、風を避け下を向いたままひたすら目的地を目指すのです。悪天候のせいで、授業の途中で帰ることもありました。帰れば雪降ろしが待っています。屋根に積った重い湿った雪を放置すると家が潰されてしまいます。作業中に急勾配の屋根から滑り落ちる事故も起きました。

そんな厳しい冬の楽しみといえば「歳さい(塞)の神」です。旧暦の正月十五日(二月中旬頃)に各家庭の正月飾りを持ち寄って燃やし、厄払いをして火種を家に持ち帰ると幸福が来るという言い伝えがあります。家では餅を摺き、小汁こづゆや煮物をつくって遅い新年を祝います。当時は、新暦の正月より、こちらの方が盛大でした。

時間が前後しますが、冬の初めにはつらい別れも経験しました。子供たちは小遣いを稼ぐためウサギを飼います。春先に子ウサギをわけてもらい夏から秋にかけてエサを与えて大きく育て、真っ白に毛替りした冬に売るのです。専門の業者がやってきてその場で買い集めたウサギの皮を次々と剥はいでいく作業を見るのは可愛そうで涙が出ました。握りしめた百円玉の代償が今、命を落としていく姿は無残であり後ろめたさを痛切に感じさせるもので、本当に辛いものでした。

正月には、町々に市がたちます。若松市は十日市、坂下町は十四日市、高田町は二十日市というふうに巡回して行きます。出店が立ち並び、普段は見ることのできない玩具、小動物、射的のようなゲーム、変わった音の出る楽器、何でも切れてしまう刃物などが売られ、香具師独特の面白い口上に吸い寄せられるように客が集まってきます。現金なもので、ポケットに入れてあるお金はあの可哀想なウサギの代償なのですが、そんなことは忘れてつい手を出してしまい、あとで母親にしかられることになるどうしようもないものを買い込んでしまうのです。親孝行にと思って買った肩たたき器は、一度使ったきりで柄が壊れてしまいましたし、ハムスターもいつのまにか逃げられてしまいました。大人にだまされた後悔とみじめな気持ちを痛烈に味わったのでした。

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