北方領土『遥かなる祖国』ー後編ー

6.島の人たち

夕食会カラフトマスのフライとメンチ、ペリメニと呼ばれる水餃子、ローストチキンにおなじみのピロシキ(ただし具はギョウジャニンニク)、トマトとキュウリのサラダ、ギョウジャニンニクのマヨネーズとオイルドレッシング和えサラダ、やわらかい白パン、それにシャンパンビール、ウォッカと広いテーブル一杯に並べられた料理の品数は、10人の宴会には充分すぎるほどでした。

通訳の方が各家庭を20分ずつ巡回するのですが、ここは来る必要なかったねと言いながら1時間も居座ったのは、多分とても楽しい雰囲気で盛り上がっていたからではないかと思っています。
ウォッカの瓶が次々と開けられ何度目かの乾杯が叫ばれたとき、私はふと我に返ったのです。
それは到着してすぐワーニャ君からもらったプレゼントのことが気になっていたからです。
縁の欠けた茶碗と盃、家の地下の土を掘っていたら発見したというのです。
それは私達の祖先が間違いなくこの地で生活していた証でした。
誰のものかを知り得る術はないにしても、半世紀以上の時の流れを経て、今、日本人の私の 手元に帰ってきた。この歴史の巡り合わせは何という不思議でしょうか。
軽いはずの茶碗がずっしり重く感じられてなりませんでした。

ワーニャ君の部屋には韓国製のコンピュータがありました。彼は得意気に操作して見せてくれ、 兄のようにコンピュータ関係の大学に進学したいんだという夢も語ってくれました。
本田さんがソフト会社に勤務しているため、二人の間でかなり専門的な話が進んだようでした。

7.島が好きだ

アーニャさんとアンドレィ君は居間に来て「日本
どれどれと私が覗き込むとそこには「ふるさと」「荒城の月」「花」などの懐かしい唱歌が載って いました。
さっそく私が歌ってみせ、スプーンをタクト替わりにして歌唱指導が始まりました。
彼女たちは過去何度も日本人との交流の場で、日本の歌を唄ってきたのでしょう。
覚束ない発音ながら合唱が始まり、私の下手な英訳を聞いて歌の情感を理解しようと瞳が 輝いておりました。それにしても日本の音楽の教科書からは消えてしまった歌ばかりです。
日本人の歌を日本の子供たちは歌うことができず、ロシアの子供たちが歌えるという矛盾、 寂しさと疑問を感じざるをえないひとときでもありました。

佐々木道議の姿が見えません。ヴァロージャさんもおりません。二人でどこかに出かけ たのでしょうか。しばらくして二人は戻ってきました。外のベランダでタバコを吸っていたらし いのです。奥さんのキツイお達しで主といえども屋内での喫煙は御法度、そこで友を誘って 隔離病棟へ、ホタル族はどこの国にでもいるものです。

私はヴァロージャ夫妻にこの島での生活は楽しいですかと尋きました。
この問いを発するとき、内心本国に帰りたいという答えを期待したのも事実です。
しかし彼らは、きっぱりとこの島から離れるつもりはない、ここでの生活が好きだと言い きりました。
確かに子供たちの教育のことを考えれば本国の方がいいに決まっている。 でもこの島には豊かな自然があるし、食べていくこともできる。何よりも自然と親しみ ながら生活を楽しめるのがいい、と語ってくれました。
彼等の生活とともに、北方領土の返還後にロシア人と日本人との入れ替えを考えていた 私の甘さが消し飛んだ瞬間でした。
それは次の日、より具体的に知らされたのです。

8.ピクニック

翌朝、私はダーニャさんのパンを焼く香ばし。
早速ブリヌイというクレープのような自家製パンにイクラやタラコやジャムを包み、 ロシアンティーを飲みながら朝食をいただきました。
食べながらヴァロージャさんから今日の行動計画が伝えられました。
皆でピクニックに行こうというのです。もちろんこちらに意義を挟む余地はありません。
でもこんなに寒い中、はたして楽しいんだろうかという疑問はパンと一緒に飲み込むことにしました。

沖合に停泊するコーラルホワイトが見え、散布山を背にした海岸に私達は連れて行かれました。
ワーニャ君、アーニャさん、アンドレィ君たちとしばらくの間散策してキャンプ地に戻ってきました。
笹の生い繁る川べりに十畳ほどのスペースがあり、丸太で作ったテーブルが備え付けられており ました。ここはヴァロージャさんたちが狩りや釣りの時に使う食卓なんだそうです。
昨夜と同じメンバーが勢揃いし、また昼食懇談会が始まりました。ただ違ったのは料理で、 今日のメニューはカラフトマスとジャガイモや玉葱を煮込んだ三平汁でした。
風の強い中ウォッカを流し込みながらまた楽しいひとときを過ごすことができました。
彼等は寒かろうが風が強かろうが外に出て択捉島の自然と向き合い、心の底から自然を 堪能しているのです。ジャガイモが小粒でも人参が人差し指大でも豊かな自然があれば 耐えていける、そんな穀然とした覚悟ができていると思いました。
それにしても大人の人達の 仕事はどうしたのでしょうか、子供たちは学校を休んでしまったのでしょうか。

ピクニックから戻るといよいよヴァロージャさんたちとお別れです。ワーニャ君たちが 七月に北海道を訪問する予定であることを聞き、再開を約束しました。
丁寧にお礼を言い、最後のビッグイベントである対話集会に臨むことになりました。

9.音楽に国境なく

クリリスク中学校にホームスティを終えた訪問
皆それぞれの家庭で交流の実をあげてきたようで満足気な顔が勢揃いしました。
学校の入り口で送ってくれたホームスティ先のロシア人と抱き合って別れを惜しんでいる光景も 見受けられるほどでした。

子供たちが歌や踊りや器楽演奏を披露してくれ、ホームスティした家の子供たちが出てくると、 自分たちの子供が出てきたときのような歓声が起こります。私もワーニャ君やアーニャさんには つい大きな声で声援を送ってしまいました。
たった一日の交流が人をこんなに変えてしまうので しょうか。国と国との垣根は高くとも人と人とを隔てる垣根はたやすく乗り越えられる。
例え顔、形が違っていても同じ人間であることの共通項さえ忘れなければ友人になるのは たやすいということを改めて実感させられたのです。

対話集会で私は指名を受け、ワーニャ君からもらった茶碗の話をしました。
この島に私達の祖先が生活していた証をもらうことができた。
ロシアの皆さんもそのことだけは是非覚えていておいていただきたい。
島の帰属の問題を解決することは前途多難かもしれないが、私達はこれから何度もこの島を 訪れたいし、交流を深めていきたいと念願している。概要はこんなスピーチでした。

実は訪問団に音楽の先生が5名入っており和光中の河野先生もさんかしておられました。
音楽教育の現場を視察したり日本の歌を指導してこられたようです。
今、島で求められているのが音楽家、医師と病院、技術者だそうです。
河野先生たちの歌は私達日本人より、文化に触れる機会の少ない島の人達により深い感銘を 与えたようでした。

「ともしび」を全員で合唱して対話集会は終わりました。

10.共存の道はあるか

択捉島での全ての日程を無事終えて午後4時50分コーラルホワイトは出港しました。

次第に暮れていく薄闇の中、紗那の街も散布山もまるで何事もなかったかのように静まりかえっていました。一時の嵐のような歓待も過ぎ去り、いつもと同じ日常がまた彼等には始まっているのだろうと推測されました。
自分の国に客人としてしか入れない、 そしていずれかは去らなければならない現実。
島のたたずまいが心なしか冷たくすら感じられてなりませんでした。

久しぶりの船の食事には御飯とみそ汁と海苔などの和食のメニューが並びました。
コックさんの心尽くしについ嬉しくなっておかわりをし、満腹に瞼も重くなってすぐ就寝しました。
帰りもベタ凪で揺れもなく朝までぐっすり眠ることができました。
午前5時、国後島古釜布沖に到着し出域の検査を受けなければなりません。
実はこの時、ある事件のせいで出航が大幅に遅れ7時間半も待たされてしまうのです。
それは拿捕され色丹島に抑留されていた宮城県の漁船の乗組員のうち2名が私達の船で帰国することになったからです。
暇を持て余した団員の中には、釣り糸を垂れる者もいて40センチ級のカレイを何枚もあげて いました。海面をよく見れば油が浮いており環境汚染が進んでいる様子でした。
ようやく船が動き出したのが12時30分、順調な航海で午後5時に根室港に帰り着くことが できました。

私はこの旅で数多くの発見や認識を得ることができました。
その中で最も大きな問題は 現実的に北方四島に住んでいて島を愛しているロシア人と、島に住んでいない私達日本人が どうやって共生していくのかということです。
具体的なプロセスが描けない中で、このままの交流を続けてはたして領土返還が実現するのかどうか、私の重い課題として取り組まなければならないと思っております。
遙かなる祖国リポートをお読み下さってありがとうございました。

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