2007年 11月

道議会は“八百長”か?

2007-11-02

9月18日に開かれた政府の地方分権改革推進委員会において、片山善博前鳥取県知事(現慶応大学大学院教授)は地方議会を「八百長」とか「学芸会」をやっていると痛烈に批判した。八百長という意味は「結果を決めてから試合をすること」であり、学芸会というのは「シナリオを決めて、それを読みあうということで、一字一句すりあわせをしたのを読む」ことだと言っている。さらにこういうことの「一番ひどいのは北海道」であり、「前日の夜に、全部翌日の質問と答弁を決めて、答弁に次ぐ再質問を決めて、お互いにそれをすりあわせをして、それから議会へ臨む」ようなことをやっていると報告した。

こうしたセンセーショナルな発言は早速新聞などで大きく取りあげられ、議会関係者はもとより多方面に大きな反響をまきおこすことになった。まず北海道議会は地方分権改革推進委員会に対して議長名の申入れを行って抗議の意志を表明した。申入書によると「知事等と議会との適切な緊張関係を保ちつつ、かつ、責任ある議会議論を深めるため、質問の趣旨などについて、意見交換を行って」いるのであって、片山教授の言うような八百長とは異なるものだと反論している。また高橋はるみ知事も「不愉快だ。責任を持った答弁をするには一定の意見交換は必要だ」というコメントを出した。一様に、片山教授の発言に対しては、失礼であり憤懣やるかたないというトーンであった。

私は、議会運営委員長という議会の流れや形をつくるセクションの責任者という立場で、この問題に対する意見を述べてみたい。
まず事実関係についてである。片山教授の「北海道議会は前日の夜に全部、翌日の質問と答弁を決め…すり合わせをして、それから議会へ臨む」という発言は間違いだ。今はそんなことは行われていない。私の経験で言うと、私の一期目の平成11年から平成15年までは片山教授が指摘するようなすり合わせや答弁調整が行われていた。「てにをは」から接続詞にいたる一字一句まで、議会側と理事者側との間で了承されないうちは、審議に入ることができなかった。そのため、何故議会がストップしているのかわからない議員が、廊下をウロウロ歩き回っていたり、時には朝まで待ちぼうけをくわされることもあった。あるベテラン議員などは、いつ議会が始まるか読めないうちは一人前とは言えない、今日は動かないよ、などと得意気に話したりしていたものだ。

しかし、平成15年、高橋知事になってからそれまでの全面的なすりあわせや答弁調整は廃止され、議論の趣旨に限った意見交換に切り換えられた。できあがったシナリオを読み合うのではなく、生に近い議論が交わされるようになったのである。その結果、野党などの質問に対する答弁において、準備が整わないために答弁が出来ず、議場で待たされたり、休憩がとられたりする場面がでてきた。火花を散らすような議論が、少しずつ出てきたのである。道民に見えずらい所ですり合わせをしたり調整をして結論だけを重視するのではなく、議論のプロセスを公開しながら問題点、対立点を明らかにしていく姿勢は従来の道議会には全くなかったものであった。

蛇足かもしれないが、片山教授は地方議会を学芸会と評した。理由は「シナリオを決めて、それを読み合う」からだそうだが、大概の学芸会はシナリオを読んだりしてはいない。読む段階から先に進んで、セリフを暗記して話し、さらに演技もつけている。だから、学芸会に対して失礼ではないか?

片山教授は、さらに八百長とも評している。ここで言う八百長というのは「結果を決めてから試合をする」という意味で使っている。広辞苑によると、八百長という言葉の本当の意味は「一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負を争うこと、なれあい勝負」、さらに「転じて、内々示し合わせておいてなれあいで事を運ぶこと」とある。私は、一般的に八百長という言葉が、スポーツやギャンブルにおいてインチキやイカサマをやることを現していることからすると、議会議論を不正の行われた勝負事に例えたことが適切だったかどうかということに疑問を持つものだ。この意味においては議会のプライドを傷つけたと言われても仕方がない。

さらに、北海道議会では激しい議論の末、知事の提案事項が修正されたり、極端な場合は廃案になったりするケースもある。必ずしも理事者側のペース通りに進んでばかりいるのではない。数は少ないかもしれないが、こうした点に対する注意が向けられていない。一方的に地方議会のていたらくを批判するばかりなのだ。例をあげると、自分の住んでいる町に通学できる高校がなくなってしまう地域に対する通学補助金を、当初15,000円を越える分を支給するとした道に対して、激しい議論がなされた結果、12,000円を超える分に修正されている。厳しい財政状況下ではあるが、通学者の負担増に配慮した結果だ。本道固有の支庁制度を今後どう変えていくか、という問題についても、道案を根底から覆すようなやりとりが行われている。地域の将来に関わる重大問題であるだけに、議員は皆必死でとりくんでいる。
議員提案の条例作りにもとりくんでいる。議員はそれなりに努力しているのだ。なのに全否定されることは納得がいかない。

とは言っても、道民の目から見て、意見交換と答弁調整の違いがわかるだろうか? 質問する議員と答弁書をつくる担当職員が、議会の始まる前にやり取りしている姿は全く変わらない。加えて意見交換の時に示される答弁書は、一応要旨となっているが、本番で読みあげられる文章の末尾が省略されている程度でほとんど変らないものだ。内部の者が変わったと思っても外部の者からはさほどでもないとすれば、変ったことにはならない。ただ、だからと言って一気に片山教授が鳥取県知事時代にやったノー原稿のやりとりがいいのか?私はそうは思わない。筋書きのない議論は、何がとびだすかわからない面白さはあるが、内容の濃い論議ができるかどうかの保証はないからだ。後でテープを起こしてみると、感情に走り過ぎて案外中身のない議論に終わっていることも多い。スリリングでドラマチックであることと、いい議論ができるかどうかは、イコールではないのだ。従ってこの際、事前の議論をペーパーに書いたものでやりとりするのをやめたらどうか?書くから細部にわたるすり合わせが可能になるのだ。書いたものがなければすり合わせは発生しない。

かつて論客でならした室蘭市選出の故小野秀夫道議は、質問前のペーパーでのやりとりをやめ、審議に臨んだそうだ。自分の質問に対する答弁を20通りほど想定し、それらひとつひとつに対する再反論を準備することによって、自身の勉強と理論構築に励んだ。将棋の読みのような想定問答に膨大な時間を費やしながら真剣に努力する先輩議員の姿を思い浮かべると、強い感銘を覚えるものだが、ペーパーを介在させないという手法は、これから取り入れても十分通用すると思っている。

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